美しき人間の日々〜そのぬくもりに用があるBlog〜

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伊能忠敬という生き方〜現実が夢を超える時を目指して〜



歴史好きな僕(@steavejobs0814)にとって、彼は学校で教わる歴史の中の一人の人物でしかありませんでした。



しかし、最近彼を見る目が変わりました。

伊能忠敬といえば、日本で初めて地図を作った人物として有名です。

ただ、彼は下総国(今の千葉県)出身の酒屋の婿養子で、天体観測が好きでした。
そして、天体観測を極めたい、と動き始めたのは50歳を過ぎてからです。

人生は50年と考えられていた江戸時代に平均寿命を過ぎてから、自分の夢を追求していきます。

そして、江戸に向かいます。しかし、彼が勉強したのは天文学(地球の大きさを知りたいと考えていた)で、最初から地図を作ろう!という強い信念があったわけではなかったのです。


天文学が好きな忠敬は、天体観測蝦夷地(今の北海道)で行うため、幕府に許可を求めます。しかし、天体観測蝦夷地にいく、という名目では許しが貰えないため、偽の名目(蝦夷地の地図を作成する)を立てることで、蝦夷地に向かうことが出来たのです。

※当時、蝦夷地周辺は西洋列強諸国が出没するも、幕府は国を守るための地図を持っていなかったため、忠敬に許しをだしたのでは?と言われています。



”しかし、幕府から貰ったお金が尽きる。”

幕府からは20両(約160万円)援助を頂くものの、そのお金は尽き、自分の私財を投じて測量を行います。

”測量も大変だった”

当時は測量器等なく、人の足と方位磁針を使い、ひたすら海岸線を歩きながら地図を描くという気の遠くなる作業を繰り返しました。
測量が終え、江戸に帰ったのは3年後。
そこで、忠敬は本来の目的であった地球の大きさを計算で出します。
その数字は当時の最新天文学書と計測した数字は一致していました。
また、忠敬が計算した、地球の外周と、現在GPSとスーパーコンピューターで計算した外周の数字の誤差は、僅か0.1%以下だと言われています。

そして、忠敬の精密な実測地図に目をつけた幕府は、60歳を過ぎた彼に日本全国の測量を命じます。
これ以降は、皆さんが学校で習った通り、日本史に名を刻む人物となったのです。


伊能忠敬は将来日本地図を作ろう!と考えていたのか?”


でもあったように、
彼もまた、自分が将来日本初の地図を作るという夢を見ていたわけではないと思います。
忠敬もまた、今の自分の立場で全力を尽くすことで、夢を超えたのです。

”では、なぜ忠敬は夢を超えることができたのか?”

”いま、ここ”に全力投球する生き方を貫き、自分の身の回りの人に喜んでもらうために、精一杯やる。

その結果、自分の人生を切り開いたのではないか?と私は考えます。

”今の自分に問いたい”

前の記事にも書きましたが、デカいことがしたい、夢を与える仕事がしたいと僕はいつも考えています。

ただ、仕事に入ると、いつも考えているのは、自分のことばかり。

だからこそ,”いま、ここ”という生き方を貫きたいです。

そんな時、僕のいう、意識高い系から、本物の意識の高い人間となったと言えるのではないでしょうか。

”いま、ここ”という生き方できていますか?


皆さんは今日、
自分の立場で、全力を尽くせていますか?

自分の周りの人達に喜んでやってもらえることは今日いくつできましたか?


有るを尽くす


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(@steavejobs0814)
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